震度5強のち、家を目指した話(後編)

【5分で読めます】
森下から歩き出したときには既に12日となっていました。
てくてくと歩く道には多くの家を目指してあるく人々がおりました。
町のお店のシャッターには「寒い中ご苦労様です!」と激励が書かれていたり、閉店しながらもトイレを貸しているお店など、東京も捨てたものではないなという気持ちになりました。

江東区を抜け、江戸川区を歩き続けると、とうとう自分の前後にあるく人影はなくなっていきました。
さすがに心細くなり、都営新宿線の一之江駅に差し掛かったとき、再度電車に乗ることにしました。
既に2時になろうとしていました。

この頃都営新宿線は一時間に一本づつ上下線が走っておりました。
壮絶な混みかたでしたが、一之江は終点に近い駅でしたので、多くの人が降り何とか乗り込むことができました。
車内は蒸し暑く、そして静かでした。
皆疲れきって言葉もないようでした。

終点の本八幡駅についた私は、一時的に彼女の家に身を寄せました。食事をいただき、暖をとりました。とてもありがたかったです。
一刻ののち、防寒具と自転車を借りて私は南船橋駅を目指しました。この時3時過ぎ。

市川市からは、本八幡駅を降りた人々でしょう、国道14号線にそってかなり多くの徒歩帰宅者の列と、どこまで続くのかわからない渋滞。
私はその流れに乗りながら、南船橋駅を目指しました。

自転車は早かったです。

4時になる前に南船橋駅に差し掛かったのですが、一切の電気がついていませんでした。
街そのものが停電していました。街灯も信号機もついていませんでした。ここまでの道のりの中、被害らしい被害を目にしなかったので、とてもショックでした。
あれほどの暗闇はなかなかこの21世紀見ることはないでしょう。

帰宅した家では、妹が図太くもスヤスヤと眠っていました。猫は挙動不審でした。家財道具は食器の半分程度がめちゃめちゃに割れているといった被害だけでした。

今となってみれば無理して帰宅するような状況ではありませんでした。しかし、あの時は使命感に近いなにかに囚われていたと思います。
帰らねばならないと。

うちはその後、電気と水の復旧は早く12日の昼に。ガスは手違い等がありましたが、13日の夕方には復旧しました。
恵まれていると思います。
今日もテレビでは悲痛な被災地の映像と原発事故の問題と事態はまだまだ改善していません。
この災害から本当に復旧するのは1年以上かかるかもしれません。

その初日に自らが体験したことを記録することは、復旧した日本にいる、少し先の未来の自分のためになると思書いてきました。

ここまで読んでいただきありがとうございます。
被災地の復興に少しでも助力できるよう共に日本を支えていきましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です


*

CAPTCHA